2017年5月2日火曜日

あなたはそれを虐待だと思いますか?⑤

動物虐待について考える時、どこからが虐待でどこまでは許されるのか?という基準は人によってまちまちです。

犬種の【スタンダード】に近づけるため、そして子供の好みに合った姿にするためという理由で外科手術されてしまったジャックラッセルテリアのニュースを聞いて、

「なんて可哀相なことをするんだ!虐待に等しい!」

と言う人もいるでしょう。片や、

「自分の飼い犬を自分が一番可愛いと感じる容姿にして何が悪い?子供に歯列矯正をするのと同じではないか?手術代というそれなりの経費を愛犬につぎ込んでいるのは愛しているからだし、耳が気に入らないからといじめたり捨ててしまうよりはずっとマシだ」

と思う人もいるでしょう。

例えば、犬を飼う目的だけとってみても、

●ただただ犬が大好き
●可哀相な保護犬がいたのでボランティア精神から引取った
●子供の情操教育のため
●散歩で運動不足を解消するため
●番犬として
●寂しいから相棒として
●狩猟犬や牧羊犬などの使役犬として
●盲導犬や聴導犬などの介助犬として
●ショーやレースに出場するため

などなど・・・飼い主さんそれぞれです。

つまり、様々な考え方の人が、それぞれ違った目的や思いを持って犬を飼っています。
しかも飼い主さんたちの経済事情や性格もバラバラ・・・となれば当然、飼い犬への接し方や飼育環境、しつけに対する考え方などにはバラつきがあって当然なわけです。

ですから、どこからが虐待でどこまでは許されるのか?という問いに対する答えも千差万別で当たり前だと思っています。

中には動物愛護の思想を突き詰めていった結果、

「本犬が望まない去勢や避妊手術をするのだって人間の身勝手で虐待だ」

という人もいれば、

「そもそも犬に首輪をつけて自由を奪っているのだから、飼うことそのものが虐待だ」

という考え方をする人たちもいますね。


何が言いたいかというと、「これは虐待だろうか?」を考える時、この多様性を認識していることがとても大切だということです。

私たちは「可哀相!!」という気持ちを抱いたとき、つい感情的になりがちです。
そして「可哀相」という言葉を使った人は自分が「正義」を背負っているという勘違いをしやすく、言われた側は無条件に「悪者」という立場に追い込まれるため、あまり建設的な話し合いにならないような気がしています。

場合によっては「可哀相!虐待だ!」と寄ってたかってバッシングすることそのものが、言われている人への虐待となる可能性もあります。
「正義」を背負っている人は本当にそんなことがしたいのでしょうか?
『間違った行いをしてしまった人だからひどい目に遭わせてやって当然だ!』ということでしょうか・・・?

私自身、はじめにお話ししたように、このジャックラッセルテリアのニュースを知った時、「可哀相に!」と思いました。
そして虐待とまではいかずとも、少なくとも私は手術という選択は嫌いだな・・・と思いました。

けれども、同じような目に遭う犬を少しでも減らしたいと思った時に、わたしたちがするべきことは、このジャックラッセルテリアの飼い主に罵声を浴びせることではないような気もしたのです。

子供のころ、感情的になっている大人にキイキイ叱られている間ずっと

「ああ始まった。うわぁ~・・・すごい興奮してるなぁ。早く終わんないかな~」

なーんて思いながらボーンヤリお説教が終わるまで顔を眺めていたことはありませんか?
そんな時、肝心なお説教の中身は大抵何も覚えちゃいません。

感情的になっている人の罵りというのは、たとえそれが正論だとしても人々の心には響かないということです。

虐待をなんとしても止めさせたいと、声を枯らして訴えかけているのに「うるさいなぁ」としか思われないとしたら残念なだけでなく目的を達成できません。

ではどうすればいいの?
残念ながら正解はわたしにもわかりません。

けれども

●自分が「可哀相」と感じたその出来事はどうして起きてしまったのか?
●その背景にはどういう歴史や制度、習慣、主義などといったものがあるのか?
●そういうことをする人がいなくなるためには根本的にどういうことが必要なのか?

そんなことを、ひとりひとりがきちんと考えてみる。
自分とは違う意見にも耳を傾けながら家族や友人と感情的にならずに、話し合ってみる。
そういった行動は、一見小さいようでも実はバッシングよりもずっと力強く確実に変化をもたらすのではないか?と思っています。

今日からお泊りのグレートくん
元気いっぱいの男の子です♪
オジサンだって元気いっぱいなんだぞ~~

ポピーの横にあるこの紫のお花、なんて名前かしら?
ヒガンバナにちょっと似た感じだけど見たことないなぁ・・・