2017年12月19日火曜日

戦中~戦後の盲導犬たち②

こんにちは。神奈川県 Pet Hotel 11!(ペットホテルワンワン)のお庭番です。



前回のブログに続いて、葉上太郎氏の「日本最初の盲導犬」という本のご紹介です。






この本は、ジャーナリスト葉上太郎さんによるきめ細かい取材に基づいた”ノンフィクション”です。

ですから、ノンフィクション好きの方にはもちろんお勧めなんですが、

「ノンフィクションが苦手~。眠くなる~」

という方も、どんどん引き込まれてあっという間に読み切れてしまう内容です。

もちろん、内容を全てご紹介することはできないのですが、今日はいくつも登場する盲導犬と人々との絆の中で、ひとつだけかいつまんでご紹介したいと思います。


【千歳と山崎さん】


●光を失った山崎さん


1939年、大阪の工業高校を出た山崎金次郎さんは、通信兵として加わっていた戦線で、ノモンハン事件によって負傷しました。

火炎放射器による全身大やけどで、耳も鼻も唇も焼失して、生きているのが不思議なくらいだったといいます。

山崎さんが20代になったばかりの時でした。

入院していた陸軍病院で同室だった知人によると、山崎さんは大阪人らしく、漫才師のようによく喋り、みんなを笑わす人だったそうです。

目はひどく焼かれていたものの、少しは視力があった山崎さんでしたが、痛みを取り除くには眼球を取ってしまうしかなかったようです。

ある日、手術内容を伝えられることなく山崎さんは眼球を失いました。

目が覚めて眼球がないことを知った山崎さんは、ショックで人が変わったように誰とも話さなくなってしまったそうです。

戦火で両目を失ったならまだしも、治療中であとはよくなる一方と思っていた時に、まだ20代という若さで両眼球を失う・・・想像を絶する辛さだったことでしょう。


●千歳(ちとせ)


千歳は1939年に日本に渡って来た4頭のシェパードの1頭 ボド(♂)と日本の軍用犬シェパードとの間に生まれた子どもです。

陸軍病院内で盲導犬訓練を受け、山崎さんを含む 入院中の失明軍人と過ごしました。

当時の陸軍病院は、盲導犬の訓練失明軍人のリハビリを兼ねた取り組みをしていたんですね。


●千歳との再出発


退院までの詳細は判っていませんが、入院中に山崎さんが詠んだ短歌がいくつか残されています。

その一部を・・・


『霜道も いとはず誘導 なしくれる 盲導犬の はく靴なきか』

『黙しつつ わが命を守る 盲導犬 目となりくれる 心いぢらし』


山崎さんんの盲導犬を想う気持ちと、盲導犬への感謝の気持ちが伝わってきますね。

山崎さんの退院間際、皇后陛下が病院を慰問に訪れた際、

「チトセ号は山崎さんに渡すよう」

とのお言葉があったそうです。


『逆へる 激しき風に 負けまじと 愛犬チトセに 行けと命じぬ』

山崎さんは、ノモンハン事件の4年後 1943年に退院し、千歳を伴って大阪に帰郷しました。

病院を出る時に千歳に命じた『行け』は、再出発するご自身に向けた言葉でもあったのでしょう。


●チト


山崎さんは帰郷後、コトさんという奥さんと結婚して豊中市に住み、3人の男の子に恵まれました。

山崎さんの次男がご自身の記憶や、ご両親から聞いた話を語ってくれています。

山崎さんたちは、愛情をこめて千歳のことを”チト”と呼んでいました。

目も耳も鼻も唇も失い、後遺症で指をまっすぐ伸ばすことができなかった山崎さんの生活は苦しいものでした。

チトを伴って万年筆を売る行商をしたり、農作業をしたり、ラジオの修理を請け負ったりしてなんとか生計を立てていたそうです。


◆大阪大空襲


終戦直前に大阪大空襲に遭った時のことです。

電車が停まってしまい、歩いて帰宅途中の山崎さんとチトを機銃掃射が襲いました。

チトは山崎さんを畑の中の小屋に誘導して守った上、三里もある道を正確に誘導して自宅へと帰ったそうです。

三里といったらおよそ12Km。

歩くと3時間くらいかかる道のりです!!

体験したことがないような恐ろしい機銃掃射に遭っても、驚いて自分だけ逃げだすことなく山崎さんの命を守った千歳と、こんなにも立派な盲導犬を当時の日本で育て上げた関係者の人々に胸を打たれます。


◆東京の”ハチ公” 大阪の”千歳”


ラジオ修理の部品を買いに豊中から日本橋(大阪の電気街)まで電車を乗り継いで行く山崎さんと千歳の姿は多くの人に目撃されていました。

当時の新聞に、次のような記事が残っています。

『盲導犬”チトセ”の名は知らなくとも 大阪の街に住む人なら恐らく一度は次のような光景にぶつかっただろう。

痛々しく焼けただれた顔の白い両眼帯、色あせた戦闘帽の男が一頭のシェパードにつき添われて地下街の階段を降り、あるいは往来の激しい交差点をわたり、混雑する電車に乗り、繁華街の雑踏をぬっている光景を』(國際新聞)


『汽車や電車に乗る時などは一緒に乗り込み 席が空いていると素早くそこへ近づき大きな両脚で”ご主人サァーおかけ下さい”と引き寄せ、また座っている乗客に少しでも隙間があれば鼻で客のヒザを左右に押しのけ主人の為に席を取るという忠犬ぶり。

また主人がドア近くに立っているときは降りる客に道を空けるように主人を導き人間も及ばぬ親切さをみせている』(産業経済新聞)


千歳の責任感の強さについて、山崎さんが残した手記の中に書かれていました。

『チトが子犬を産んだ時だけは休ませなければならないので妻に案内してもらおうとしましたが、チトはグウグウと悲しげな声を出し、『子どもを見なさい』と叱るように言うと三匹の子を一ヶ所に集めてワラをかぶせ、妻を押しのけて案内役を奪いました』


そんな千歳を見た大阪の人々は、盲導犬などというものを知りませんでしたから、ただただ賢い犬だと感心して

『東京やったら忠犬はハチ公て言うてるけど、大阪には千歳いう賢い犬がおんねん』

と言っていたそうです。


●さようなら千歳


千歳は10才になる1か月前、突然体調を崩して倒れ、その翌日に息を引き取りました。

フィラリアでした。

「死なしてなるものか」

と口移しで千歳に水を飲ませ、懸命に介抱する山崎さんの願いも通じず、千歳は最期に首をもたげて別れを告げるように家族ひとりひとりの顔を見回すとグッタリして目を閉じました。

『めしいしわれを いといくれしか 愛犬は 死ぬるまぎわの きわのきわまで』

山崎さんの句です。


●千歳よ永遠に・・・


千歳の死後、山崎さんは友人に千歳をはく製にしてもらいたいと泣いて懇願しました。

「瞼に描けというが、わたしゃチトを見たことがないんだ。

何度もさわってみて体の大きさや耳の恰好、足の様子などはわかっているが、どんな眼をしているか、どんな毛並みかわからん。

どんなに賢い顔をしているか、どんな済んだ眼をしているのか。

女房や子どもの顔はみなくても、チトの顔だけは、せめて一秒でもみたかった」


最初は断った友人も、最後は根負けします。

「チトの遺骸を抱いて白い眼帯のままの両目で号泣するズンベラボーの彼の顔は生涯忘れることはない」


こうして千歳ははく製になって、今も日本盲導犬総合センターに寄贈され、富士ハーネスにいます。




山崎さんは、千歳が亡くなった後、鍼灸師の資格を取って”千歳堂”という鍼灸院を開きました。

千歳の25回忌には、「犬に?」と周囲に笑われながらも盛大な法要を営んだそうです。

その5年後、仕事中に倒れた山崎さんは、その日のうちに亡くなりました。

62才でした。


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本書には、山崎さんと千歳以外にも、たくさんの盲導犬と失明軍人たち、そして当時の日本で盲導犬を育成しようと懸命に闘っていた人々のエピソードが綴られています。

ぜひ読んでみてくださいな。



<今日のPet Hotel 11!>

みんなー、ウリだよ~~~ん♪

きょうはみんなに、他の犬のおちょくり方を
教えてあげるよ~~ん♪
いつもはボスをおちょくってるから・・・

きょうは”なつ”で遊んでみるヨ!

無視されても気にせず こーやって・・・

あきらめずに挑発しつづけるのがコツさ!

ホラ、乗って来た♪♪♪

イェーーーーイ!!追いかけてきたー!

オリャオリャーー!

(ウリくん・・・速すぎて撮れないよ(-_-;))

ヘイヘイヘーーーイ!!

みんなもやってみてね~~~!

(みんなにできることじゃないと思うよ~(笑))